寄進した瓦を手に、大仏の横に立つ初老の女。
それが私。たわし、52歳。
会社員。バツイチ、シングル。息子(大学院生)と2人暮らし。
もうすぐ、おひとりさま予定。
最近ハマっているもの:
仏像鑑賞、見物記、みうらじゅん、いとうせいこう
日出処の天子、隠された十字架、法隆寺、聖徳太子
天智と天武、美術鑑賞、歴史、平家物語(アニメ)、鎌倉殿の13人
好きなもの、好きなこと:
ハンドメイド、旅行、読書、映画、水曜どうでしょう
台湾、カフェ巡り
はたと気づく。私の人生残り時間は ”京都2泊3日旅行”
ある週末の朝、ふと思いました。
「あとどんなに長生きしても、40年やそこら」
「確実に永遠の眠りにつく日が来るというのに、今だらだら寝ている場合か?」
「たわしよ、それでいいのか?」
ガラガラドーン!!(カミナリの音)
ひーっ!!
この世に、片道チケット、長期滞在旅行してる気になってたけど
いやいや、違うて!
とっくに京都2泊3日旅行になってる!
京都に行って、のんびり朝だらだらしているバカがどこにいるか。
まだまだ見たいもの、行きたいところ、やりたいことが盛りだくさんだぞ!
時間が圧倒的に足りないじゃーん!
そんな焦りがリアルに迫ってきた、52歳の春だから
いつか必ず終わりが来る。
当たり前過ぎる自然の摂理を、心の底から実感する日がとうとうやってきてしまいました。
こんな私の今までのこと、これからのこと。
誰かのお役に立てることが
ほんのちょっとでもあればと思い
ブログに書きとどめることに決めたのであります。
と、長い前置きでしたが
ここからは私の今までのこと、ざっとお話ししたいと思います。
ミシンの音が子守歌。幼少時代から学生時代
東京の下町に生まれ、私も周りもみんな、ザ・庶民。
縫製業を営む両親は、週末の休みなんてものもなく、朝から晩まで一生懸命働いていました。
だからミシンの音は、我が家のBGM。
家の中には生地がいっぱいで、そのほこりもいっぱい。
おかげで免疫ができたのか
花粉症やらハウスダストやらに負けない
丈夫な体になりました。^^
ハンドメイドが趣味なのも、こういう家庭環境があったから。
職人歴60年以上の母には、いまだに裾上げお願いしたりしています。
当時は今みたいに、家族で外食やお出かけ、旅行なんて、めったにしたことなかったけど
当たり前すぎて、そんなに不満に思うこともなかったなぁ。
小中高と公立に通い、大学は中堅の私立大学。
独文学を専攻するも、何一つものにできない怠惰な学生でした。トホホ。
大学時代は海外旅行に目覚め、バックパック背負ってヨーロッパを巡ったのは、いい思い出です。
旅行会社に就職。そして結婚
海外旅行が楽しすぎて、旅行会社に就職。
添乗でアメリカ西海岸に行かせてもらったり
ニューヨークに出張に行かせてもらったりしましたが
大して英語は話せず( ´艸`)
有給取って、イギリス一人旅もしましたけど、今やるとしたら怖い。若かったのね~。
26歳の時に職場結婚のため、旅行会社を退職。
その後は、アルバイトで某旅行情報誌のコピーライターを約1年やっていました。
妊娠した!でもニュージーランド行っちゃえ
27歳の夏に、妊娠が判明!
調度その時、夫婦でワーキングホリデーで、ニュージーランドに行く準備をしていました。
そのために旦那はすでに旅行会社を退職済。
どーするっ??
と、しばし考えたものの、B型夫婦はあっさり決断しました。
じゃ、ニュージーランドで出産したらええやん。
ニュージーランド国籍ももらえるし、なんかかっこいい~。
たわしの母には、内緒にしといて、ニュージーランドに行ってから報告ね。
(しーーーーーーーん)
今、つくづく思います。
バカって怖い。若さって怖い。
しかし当然のことながら、そんな無謀な計画は、たわし母の泣き落としにあい
ニュージーランド行ってから、たった4ヶ月で帰国の途についたのでありました。
まぁ、その時も真っ直ぐ帰るのはもったいないので
まぁまぁ大きなお腹で(この時妊娠7ヶ月)
オーストラリアを巡り(深夜バス乗車したり、ユースホステル的なとこに泊まったりもして)
ソウルに1泊なんかもしちゃったりして(真夏の南半球から、いきなり氷点下)
よくもまぁ無事だったと。
出産。そして離婚
28歳で出産。密かに願っていた男の子。
息子が1歳を過ぎると、やはり外で働きたい気持ちが強くなり
保育園に預けて、パートに出ました。
そして、息子が4歳の時に離婚。
有難いことに、パートから正社員にしていただき
近くに住む母や妹の手を借りながら
息子と2人、結構楽しい(私はね)毎日を過ごしていたのです。
東日本大震災。九州へ移住の決断
息子が小6の春、東日本大震災が起きました。
そして、その後に起きた様々な出来事。
息子にとって少しでも安全なところで暮らしたい。
普段はアホみたいに即断即決の私も(それによる失敗も多数)
悩みに悩んだ末、すべてを捨てて移住することに決めたのでした。
行き先は未開の地、九州。その時、たわし、42歳。息子は中2。
そんな暴走する母親に、抵抗むなしく、首に縄付けられ同行させられる息子。
彼の不安はいかばかりだったでしょう。
ごめんよ。息子。
まるで異国の地!喜びも悲しみも満載の九州生活
九州の地を踏むのは、高校の修学旅行以来、約25年ぶり。
縁もゆかりもないこの場所に、思春期真っ盛りの息子を放り込むことに
とてつもない不安と申し訳なさを感じつつも
健康でいてさえくれれば、あとはどうにでもなる!
という安心感も生まれたのでした。
最初の半年は学校にもなかなか馴染めず、腹痛や頭痛で休むことも多かった息子でしたが
彼の頑張りと、周りの暖かさのおかげで
次第に学校生活を、笑顔で過ごせるようになっていきました。
一方、母たわしは、仕事に苦戦。
東京とは程遠い、職場環境の貧弱さに、地方の現実を思い知らされました。
なんの取柄もない、40過ぎのおばさんに稼げる給料は、あまりにも少ない。
結局、貯金で補填する日々。
とはいえ、ありがたいことに素敵な友人達に恵まれ
楽しいことも、苦しいことも、たくさん経験できた、かけがえのない時間でした。
あのままずっと東京にいたら、絶対見ることのできなかった世界を
思いっきり味わうことができたのですから。
母子家庭、住民税非課税世帯に、東大合格者現る!
たわし息子は、県下2番目の高校に進学しました。
もちろん、公立。授業料は無料という、母子家庭にはなんともありがたい制度です。
入学時には、東大の「と」の字も考えたことのなかった凡人息子が
なぜか周りから固められ、東大を受験することに。
当初のたわしのもくろみは、息子は九州の大学に進学して、そこに根付く。
たわしはお金がないので、東京に戻る
といったものでしたが
地方の経済的現実を嫌というほど味わった、たわしは
息子が東京の大学を希望するなら、もう思い通りにさせてあげよう
私ができることは、全部やりきったのだから
という気持ちに変化していました。
高校では、課外授業をしっかりやってくださり
先生方の多大なサポートのおかげで、塾に通うこともなく
東大に合格することができたのでした。
思えば、たわしの両親は、家が貧しかったので
中学卒業と同時に上京、就職。
母は定時制の高校に通いましたが、父は中卒です。
そこから働き詰めの人生で、父は孫の顔を見ることなく、亡くなりました。
そんな家庭から、まさかの東大生。
父はきっと天国で自慢していることでしょう。
そして、5年ぶりの東京へ
何度か帰省してはいたものの、久しぶりの東京は
みんなお金持ちに見えて、ちょっとまぶしい。
上京したての学生さんの気持ちが、少しだけわかったような気もしました。
生まれ育った街に帰ってきた安堵感を感じながらも
47歳の職探しという現実は、不安でしかない。
正社員は、はなからあきらめ、派遣で働くことに決めたのです。
そして見つけた職場は、女だらけの伏魔殿(笑)
1年半で根を上げ、退職を申し出た直後に
なんと以前正社員で働いていた職場から、戻ってきませんかオファーが!
このタイミングに、震えるほど驚きました。
そして何よりありがたい。
心の底から感謝をした日から、数年が経った今
人生引継ぎキャンペーンの一環として
これまで経験してきたこと、今好きなこと、これからやりたいこと
綴っていければいいなと思います。